12月15日、マスコミが一斉に、来年の大河ドラマの主人公である「女地頭」井伊直虎が男ではないかという新史料が発見されたと報道しました。
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当然のことながら、マスコミや世間は「井伊直虎は男か?」と大騒ぎしていますが、かつて遠州井伊谷徳政の論文を書いた一歴史研究者としては、新出史料によって、戦国期の井伊氏と井伊谷地域の実態解明が進展する可能性が出てきたことを歓迎したいと思います。

報道によれば(日経)、井伊家の跡取り候補が次々と亡くなり、領内が混乱したことをうけて、今川氏真は家臣関口氏経の子で、氏経弟の新野左馬助の甥にあたる人物を井伊次郎として、井伊家の領地を与えたと記述されているといいます。

次郎直虎の名が登場するのは、永禄9年にいったん出されながら施行が停止されていた徳政令を、永禄11年11月になって再試行を命じた書状です。
論文を書いた当時は、関口氏経と次郎直虎が連署して出している理由がうまく説明できずにいました。
ここに出てくる次郎直虎が、関口が送り込んで「井伊次郎」とした人物であるとするならば、父が子をサポートしたものと解せることになり、スムーズに理解できます。

また拙稿では、永禄9年の最初の徳政令の試行を停止した「井主」を「井伊家の主人=直虎」とする通説に対し、永禄11年9月の瀬戸方久宛今川氏真判物に出てくる「主水佑」に比定し、背景に永禄期の井伊家の家督と家中の混乱があることを想定しました。
今回の新史料でも、井伊家の家督と家中の混乱が記述されているようで、拙稿の推定が裏付けられることになります。

その意味で、井伊家の筆頭家老木俣氏の聞書は、一次史料から想定される史実を説明するのにうまく符合することもあり、信ぴょう性は高いと考えてよいのではないかと思います。
あとは、読んでみないと何といえないので、史料の全容が公開されることを期待したいところです。

それにしても、井伊美術館が50年前に購入しておきながら放っておかれた史料が読み返されることになった(日経)こと自体もそうですし、マスコミがこぞって大きく報道したのも、すべては大河ドラマの主人公だからです。
そうでなければ、いずれ読み返されることはあったとしても、一部の戦国期研究者の間で話題になった程度だったはずです。
ある意味で、大河ドラマさまさまといったところでしょうか。

なお、付言すれば、井伊次郎が関口氏経の子、新野左馬助の甥であるとする聞書の叙述を前提に、井伊次郎と次郎直虎が同一人物であると解するならば、次郎直虎は男性ということになります。
一方、先の瀬戸方久宛今川氏真判物に「次郎法師年寄誓句幷主水佑一筆」と出てくるように、先立って方久に買地安堵状を出している「次郎法師」は、本来の井伊家の人物(当主か)で、関口の送り込んだ「井伊次郎」とは別人であった可能性も想定されます。
事実、一部報道でもそのように解釈できることが伝えられています。

かつて拙稿では、井伊次郎法師が女性であるという前提で、「年寄誓句」という語句をもとに「家老を中心とした一族・家臣団が強い後見を以て次郎法師を支えていただけでなく、政治的決定権についてもかなりの影響力を持っていたと推察される」と説明しました。
女性だから後見が必要だったなどと言うと、「おんな地頭」のイメージを崩すものだ、女性を軽視していると批判されそうですが、もしこの推論が妥当であるならば、井伊家の流れを引く「次郎法師」が女性で、関口氏経の子の「井伊次郎」が「次郎直虎」であり、別々の人物の話が一人の話になってしまったと解する余地もあります。

考えてみれば、江戸時代になって次郎法師が女性だという話が出てくるのもやや唐突で、根拠となるそれなりの伝承があったものと推察されます。
それこそ齋藤道三の親子二代美濃攻略が道三一代の事績にまとめられた話ではありませんが、二人の人物の事績が一人のものにまとめられてしまったのであれば、井伊次郎法師が女性であったとする可能性も全く捨てきれないところです。
もちろん、次郎法師が男性であっても、歴史像が解明された結果であれば、それはそれでよいと思います。

ということで、久しぶりに(?)20年以上前に書いた旧稿を少しばかり読み返してみました。
あらためて既知の史料を読み返してみる必要がありそうですね…。
機会があれば、ぜひ新出史料の内容も知りたいところです。

珍しくブログで自分の研究のことにふれた(笑)雑感でした。

阿部浩一『戦国期の徳政と地域社会』